まず、前提として「進化」という概念自体が複数の仮説が複雑に絡み合いつつ、さらに各科学者の「信念」みたいなものに基づいて議論されるテーマです。ましてや、これからさきの未来を考えるためにはさらに複数の前提条件を設定する必要があります。そしてこの条件をどのように設定するかで、未来人の形はいかようにでも創造可能です。そして、この議論は必要となる仮説が多すぎるので、あまり「科学」を効果的に用いることができません。なので、重要なのは君自身が「進化」を君なりにうまいこと捉え、今後の地球環境の変遷を想像し、そこに適応した人類を思い描くことです。そしてそれは限りなく自由です。
過去に出版された本としては、1990年にDougal Dixonというイギリスの地質学者が執筆した「マンアフターマン」という書籍があります。地球が荒廃し、どうにか生き残りをかけて適応していった多様な人類を描いています。また、僕の好きな漫画家「弐瓶勉」のマンガに「BLAME!」という作品があります。この作品は人類が太陽系規模の巨大構造物を作り出し、結果として多用な階層で独自に種分化してしまったあとの話です。主人公は原始人類の遺伝子を探す旅をします。このように、設定次第でいかようにも考えることが可能です。
進化を考えるときに外してはいけないと僕が考えるのは、ダーウィンの唱えた「自然選択」の考え方です。これは、「絶対的に優秀な形質など存在せず、環境と適さなかった形質が淘汰されていくことで、相対的に環境に適した形質が次世代に受け継がれていく」という考え方です。言い換えれば、環境(ニッチ)が種を育むということです。そしてどんな形質が次世代により伝わるかといえば、単純に「子どもを多く作れる形質」が次世代に伝わっていく、と考えます。現代社会において人類のどのような形質が子どもを多く作れる形質たりえるでしょうか。これを考えてみるのも面白いですね。この考え方で作られたややブラックなコメディ映画「26世紀青年」(原題”Idiocracy”)もあったりします。気になったら観てみてください。